山口安次郎(やまぐち やすじろう)

明治37年(1904)生まれ。尋常小学校卒業後、12歳で家業に従事する。27歳で独立、西陣に独自の帯織物の会社を創業するが太平洋戦争が始まったため一時中断。昭和22年(1947)43歳の時再開。昭和25年(1950)連合国最高司令官マッカーサー元帥の能装束裂地を寄贈。同時に金剛流能衣装を復元。以来、能楽各宗家の依頼により数々の能衣裳をてがける。昭和59年(1984)にスウェーデン国立民俗博物館、翌年デンマーク国立博物館にで能衣裳展を開催。昭和61年(1986)イギリス・チャールズ皇太子ご夫妻、西陣見学の際織りの実演をすると共に能衣装を献上。平成11年(1999)フランス・リヨン、翌年、イギリス・ロンドンにて能衣裳展開催。ヴィクトリア・アルバート美術館に寄贈。現在99歳。晴耕雨織の日々である。
文:高橋伴子 撮影:山崎兼慈 協力:山口織物(株)
明治36年(1903)、織り職人の父伊之助の二男として生れた。二歳上の兄は、30年あまりの時間をかけて「源氏物語錦織絵巻」を完成させた、山口伊太郎である。(特集ページはこちら)父は根っからの織り職人であったが、健康に恵まれなかったことと、兄弟、姉妹合わせて11人の子沢山という環境でもあったため、当然生活も苦しかった。貧しい生活少しでも助けるために、小学校を4年で終えると、兄がそうしたように、何の疑問もなく安次郎も丁稚奉公へ出た。
「わしらの時代には、そんな家庭が多かった。小学校行けたら上等でしたな。今のように6年制とは違って、4年制。4年やったら、小学校卒業の値打ちがありましてん」
今でいえば、九つか十。子供もれっきとした労働力。安次郎の父でさえ、山科から京都へ五歳で奉公へ出されたという。そんな時代だった。『つい、この間のように思う』という、1世紀昔のこの思い出は、後年、安次郎の東南アジアへの小学校建設支援となって結実することになった。
 奉公に出されたあくる日から、一人前に機を織らされた。以来今日まで安次郎は変わることなく、京都・西陣で織り続けてきたのである。
安次郎の代表的な仕事として、常に高い評価とともに語られるのが能衣裳である。本来、帯を織る職人であった安次郎にとって、能衣裳は範疇外のものであった。その長い織り職人としての人生の系譜の中で、第二次世界大戦は、大きな影響を与えた。この戦争を境として、それまでの暮らしは大きく変化することになったことはいうまでもない。日本の敗戦による環境の激変、物資不足、経済の疲弊は、京都・西陣においても同様であった。多くの機屋が戦時中に廃業し、西陣から機の音が消えた時代であった。安次郎の能衣裳は、こんな絶望的な状況を背景として、誕生したのである。
 それは、一つの知恵であったという。
「戦争が終わって、疎開先から戻り、組合に復帰したものの、何もあらへん。割り当ての糸をくれへんのや。糸は証明書がなければもらえません。その紙1枚がない。糸がなければ織れへんし、知恵をしぼりました。日本の伝統芸能である能の衣裳をこしらえるというて、糸をもろうたろと思いましたん。能衣裳の頒布会をするというて。知り合いの進駐軍の将校の口添えもあって、糸をもろたんです。そしたら、織らないかんわな。4,5点見本を織ったのは良いが、大名、華族みんな落ちぶれてしまいましたから、売れしません(笑)。そんで、残りの糸で、帯を織ったんですわ。そのとき織った能衣裳のサンプルは、コーンパイプで有名なマッカーサー元帥が、日本を離れるときに持ち帰られました」
能衣裳を織るという発想が生れたのには、訳があった。安次郎は、二十歳の頃から熱心に謡を習っていたのである。近所の年寄りに手ほどきをうけ、何よりも好きで謡の稽古を続けていた。謡好きという本来の性質があったからこその知恵だったといえよう。それが、その後の安次郎の道を作ったのである。当初は、確かに売れなかった。切迫する暮らしの中で、嘘も方便ともいえるこの知恵で、能装束から帯に転換し売り始めた。こうして、安次郎も兄の伊太郎も戦後いち早く立ち上がって歩き始めたのだ。そんな日々を重ねて、安次郎が本格的に能衣裳を織りはじめたのは、50代半ばの頃であった。商売を息子巌(いわお)に譲り、わがままに使える時間が出来てからのことだったという。
「自分は貧しかったさかいに、謡しか習いしませんけど、せめて息子には能を舞わしてやろうと思うてね。“謡と仕舞いと習うたら、能を舞いや”といいました。息子は一生懸命やってました。それで、せめて息子が舞いよるときには、能装束をこしらえてやろうと思うて。それがしとうてね。それが、始まりです」
能は大名芸。囃し方も後見も地謡も、みんなシテを立てるためにある。その醍醐味を、息子に味合わせたい。わざわざ舞う曲に合わせて、更の衣裳を作って着せたい。それは、安次郎自身の夢でもあった。能衣裳を織りあげることは、その夢の実現に他ならなかったのである。
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謡曲から能衣裳へと、その道程について短絡的に語ったが、ただ発想だけでは価値ある作品として成功はしまい。そこに確かな技術があったからこそのことである。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて完成された能は、謡と仕舞いによって構成される歌舞劇である。そこに使われる衣裳は、蝋燭や薪の明るさの中においても、その強い存在感を見るものに与えられるように、重厚金襴な織物で作られていることは、周知のことだろう。
いちどに織られる布幅としては、反物とは違い幅広く織られる。普通の帯が八寸五分に対して能衣裳は、一尺二寸。色見本は1000や2000では収まらない。織り込む柄のテーマによって、柄、文様に合わせて色調が考えられる。そのために、糸から染め上げられる。微妙な色の違いが染め込まれるのである。
袖の部分に使われる布地は、長さが三尺、身頃部分で四尺八寸から九寸ほどになる。一領(一着)を織るだけで、およそ3ヶ月を要するという。流派の宗家から注文される場合などは、1年ほどの時間を費やす。
「能謡曲の内容は、あらかた知っておりやすので、新しく注文された衣裳の場合は、大体どのような能につけられるのか考えて、装束の絵を描き『先生、どうどす?』と尋ねますのや。『絵はそれでええさかいに。それに美しい女の人が失恋した憂いのある色をのせ』といわはります。そういうご注文のしかたをされます。これほど楽しいことはおへんなあ」
 演じる者から織り手へのいわば挑戦状に、あの手この手と迷いながら試行錯誤の毎日。機に向かいながら解決していくことが、安次郎には楽しさであり嬉しさとなっていったのである。その度に技が磨かれていたのだ。
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能装束の依頼は、能の五流宗家それぞれにわたり、数々の名品が製作された。注文の大半は、新作よりも、代々受け継がれてきた能衣裳の復元であるという。復元の最も難しい点は、褪色した衣裳を、織られた当時の姿に直すということにある。貴重なものであるために、衣裳を解いて裏地を見て本来の糸の色を捜すというわけにもいかず、何度となく染色を試み、サンプルを作り、その本来の姿に復元していくのである。染の技術、織りの技術、いくつもの謎解きが、安次郎ならではの秀でた技を培っていったのである。
安次郎は、科学を否定しない。かえって、合理的で効果的なものとしてとらえている。特に糸の染色については、明快な考えを示している。[伝統的な]という言葉で表現されるとき、その染色については、植物染料にこだわることを良しとする傾向がある。これに対し、安次郎は疑問を投げかけた。植物染料、つまり草木染めの場合、染め上がった時点から褪色が進行するという明らかな事実がある。作りたてが最も良いが、最良の彩度を保つ時間があまりにも短いという欠点を固持する必要はあるのか。時間も費用もばかにならない現実がある。そうであるならば、コスト的にも、彩色の保存においても、思うようになる化学染料を使うべきだという態度を、大きな自信とともに示した。その自信は、草木染めについての、徹底的な実践研究に裏付けされたものであった。息子とともに、とことん研究することで得られた研究結果は、分厚い一冊の本にまとめられ、現在では、染色を研究する者たちの座右の書となっている。安次郎の、この臨機応変さが現代の名工たる由縁なのだと思う。
一見すると、能衣裳はきらびやかな織地に全面豪華な刺繍が施されているような印象を与えるものが多い。だが、そのほとんどが織りの技巧を駆使したものであるというから驚きである。もし仮に、織りではなく、刺繍で手がけたとしたならば、とうてい重くて衣裳として成り立たないのだという。このことを踏まえていえば、能役者が舞台で自在に演じることが出来るためには、能衣裳は、より軽くなければならないという必要条件があるのだといえよう。安次郎は、薄く織れるように、実験を試みながら技術を追求した。『糸は生きもん』と言い、やがてその性格を知り尽くした安次郎の手足は、機を我が物としてよどみなく織るようになった。体力、持続力、技術。どれが欠けても、能衣裳は完成されない。それを日常茶飯のこととして織り続けてきたのである。
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そして1986年、来日されたイギリスのチャールズ皇太子・ダイアナ皇太子妃夫妻に、安次郎の能衣裳が献上された。日本を代表する工芸品の一つとして、能衣裳の美術的価値は、伝統を重んじるヨーロッパにおいて高く評価された。同時に、スウェーデン、イギリス、デンマーク、フランスにおいて展覧会が開催された。作品は、スウェーデン国立民俗博物館、イギリス・ビクトリア&アルバート美術館、デンマーク国立博物館、フランス・リヨン歴史・織物博物館に所蔵されている。出来ることなら、世界中の様々な国で展覧会をしたいという。そして、それぞれの国に衣裳を一領ずつ寄付しておきたいと願っている。国々によって気候風土が違う状況の中で、50年後、100年後において、これらの衣裳がどのように変化するのかを知りたいという思いがあるからなのだ。
「もう百年生きとうおすな。自分の織ったもんがどんな風に変わるか見たいと思いますわ」悠然と語る。
安次郎にいわせれば、能衣裳も帯も同じものなのだという。伝統芸能としての衣裳も、女性が身につける帯についても、その価値に差はない。
「ある方が言うてはりました。ダイヤの指輪を買うよりも帯のほうが良いと。帯やったら20年たっても、30年たっても、孫の代になっても変らへん。特にこの頃では、日常に着物を着はらしません。フォーマルに着はるだけに、丁寧に着てくれます。その分、ええもん着たいといいます。それやったら高級な帯が良いということですわ」
 用いるための美しさをもつものが工芸とするならば、このように織られた帯は、美術品的価値のある工芸品といってもよい。フォーマルにせよ、それを身につけ装うのが、日本の民族衣装である着物なのである。
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「晴耕雨読」という言葉がある。晴れた日は畑に出て耕し、雨の日は読書をするという意味であるが、安次郎の場合、「晴耕雨織」なのだという。晴れた日に畑をやり、雨の日に機に座り織る。その日々は、変ることはないと自ら語る。畑との関わりは、戦時中滋賀県に疎開したときから始まっている。決して良い土壌とはいえない土地を買い求め、開墾し、工夫して米や野菜を栽培した。持ち前の探究心もあって、自然肥料を研究した結果、米も野菜も見事に実り、疎開時代の家族を支えたという。その姿勢は、今も変らない。
「畑をやるとようわかります。エゴはいかん。何においても循環です。自然科学そのものですわ。人も畑も一緒に生きると、ようけ美味しい野菜が取れまっせ。大根おろし一つでも、味が全然違いますのや。私に欲望というものがあるとしたら、もう一遍自分の作った米に、自分の作ったお茶をかけて、茶漬けを食いたいと思いますわ。あんなうまいものはおへん」
 戦争のために機もおれず、ただ生きるための自給自足の3年間。この農業生活の経験でさえ、安次郎は我が物の技としたのである。そして、その姿勢は今も変らない。機に向かうのも畑を耕すのも、同じように大切なことなのだ。
 これまでの99年間、田圃の道をコツコツと歩いてきたような人生である。走りもせず、立ち止まることもせず、静かに歩いてきたのだ。『織るのが好きやったから、そうしてきただけ』と言う言葉が何度も、その口ついて出た。しかし、その歩みを促したのは、兄・伊太郎がいたからである。一生懸命、脇目もふらず、夢中で生きていく兄の姿が、安次郎は好きだった。その後について、ひたすら歩いてきたのだという。
「兄の真似をしようとは思わなんだけれど、あの人が歩いていくのが好きどしたなあ。いつでも兄貴の仕事についていって、手伝いました。それがうれしゅうおした。あのひたむきなところが好きどす。兄貴が好きなんです。いっつも偉いなあて、尊敬してます」
 兄とともに暮らしたのは、兄が丁稚奉公へ出るまでの僅かな期間である。以来一緒に暮らしたことはない。十年も満たない時間の思い出が、この二人を今日まで活躍させる原動力となっていたのだ。
今も兄弟は現役として闊歩する。『ずうっと兄貴の後をついて行きますわ』という言葉で、山口安次郎のインタビューは終わった。(了)
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